当時名高いあなたのお筆

「今、そなたを前に置き、にすがたに比べながら、ほんの一筆入れればよいのじゃ」 呉羽之介はあどけなく、「それならすぐにお仕事に、おかかりなされまし、当時名高いあなたのお筆に、私の絵すがたが描かれると聴き、宿の母もしきりに楽しんで待っております。出来上ったら一刻も早く、見せてやりとう存じますれば――」「さればそのまま片里どのと、何ぞ物語をしていやれ、わしは仕上げの筆を終ろう。片里どの暫時《しばらく》のあいだ御無礼いたすぞ」 露月はそう言って、絵枠に向い、ふたたび絵ふでを動かしはじめました。「やはり立っておりましょうか?」 と、呉羽之介は画《え》すがたの出来上るのを楽しみに、いそいそと露月にたずねた。「いいや、顔だけでよいのじゃ、坐ったままでいなさるがよい」 露月はすでに絵絹の上にチョイチョイ筆を加えはじめます。 ――明るく皓《しろ》い初夏《はつなつ》の日ざしが、茂り合ったみどり草の網を透《すか》して、淡く美しく、庭のもに照り渡り、和《やわ》らかな光線は浅い檐《ひさし》から部屋の中へも送って来ます。端近く坐った呉羽之介の玉の顔《かんばせ》は斜めに光りをうけて、柔《やさ》しい陰影になやましさを添い、ふっくり取り上げられた若衆まげの鬢《びん》のほつれは、粉《こ》を吹いたように淡紅《ほんのり》としている頬《ほお》に僅《わず》かに乱れ、耳朶《みみたぶ》の小さく可愛らしいのが、日に透《す》いて、うすら紅い何とも言われぬ美くしさを見せているのでした。 片里は煙草盆を引き寄せて、紫煙をゆるくくゆらせつつ、惚々《ほれぼれ》と呉羽之介を眺めていましたが、やがて感に堪えぬげに言い出すのでした。「ああ、何という仕合者がこの世にいることか――のう、呉羽之介どの――」 呉羽之介はいぶかしげに、「仕合者と申しますると――」「そなたのことじゃ」 と、片里は煙管《きせる》を叩《たた》きながら、

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