呉羽之介、女歌舞伎宇喜川お春と初恋する事

「呉羽之介どのは、世の中の誰れもが心でひそかに願うことを口に出したまでじゃ」 呉羽之介はもはや我れを忘れて、絵すがたの面《おもて》を刺すように鋭どい瞳でみつめつつ、狂うがごとく、憑《つ》かれたごとく、何やら口の中で口走しっていましたが、やがてその場にうつぶして、低くはげしく咽《むせ》び泣きをしはじめるのでした。 露月は恨《うら》みをふくんだこえで片里に申しました。「そなたの下らぬ言葉が、此の少年を堕落させたわ――この哀れな有様を見ても気が尤《とが》めはせなんだか――」 片里は黙って微笑をもらしながら、先程とはまるで違った心の持主となりおわった呉羽之介の、悩ましげなすすり泣きのすがたをば、いと興深かげにながめるのでありました。

[#3字下げ][#中見出し]呉羽之介、女歌舞伎宇喜川お春と初恋する事[#中見出し終わり]

 呉《くれ》たけの根岸の里の秋|闌《た》けて、片里が宿の中庭の、花とりどりなる七草に、櫨《はじ》の紅葉も色添えて、吹く風冷やけき頃とはなりました。 秋の入のしずやかな紅《くれない》が、ほのかに空明をひたして、眺めかたけきとあるくれのこと、庭にのぞんだ奥座敷に、片里は一人の客を相手に、小さな盃《さかずき》をふくんでいました。 床の香炉から煙の糸が崩れながら立ちのぼり、秋蘭の鉢ものが床しく匂っておりました。 此の夏の了《おわり》から二月あまり旅に出ていた絵師の露月が、つい二三日前江戸へ帰ったので、今日しも久々の友垣を招き、旅日記を聴こうためのあるじもうけをしたのでした。 旅の話もほぼつきると、片里は露月に盃をさして、

— posted by id at 03:37 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.1974 sec.

http://homes4simivalley.com/